妄々録拾穂抄

MowMowしている

我が家の父親事情(読まんくていいです)

たわごと。

まあ書いてる自分も終わってるので、もし読むなら話半分で読んでもらいたい。

我が家の父親も今の分類でいけばモラハラ父というやつと思う。

気分屋で苛立ち屋で怒鳴り屋でたまに優しくて余計に外面は良くて。子供の頃からいろいろあるので、恨んでいるとまではいかなくても嫌な成人男性像としてはずっと累積しているものがある。難詰するような怒声や恫喝など慣れたと言えばいいか流していると言えばいいか、父親の言動で嫌な気持ちを惹起させられることはなくならないが対応は慣れてしまった。逆に大人になって年々父親への興味がなくなっているので、子供としてはダメなのかもしれないとか自分の健全な成長とはなんだったのだろうと考えることもある。

父親のテリトリーは家の中全部という認識なので共用のスペースも他人の部屋もお構いないのが昔からの習性だった。我が家いくらかマメに物を片付ける習性の人間の集まりではあるのだが、例え自分や祖父の部屋でも普段こまごまとチェックして已まない父親の目には他人の私物が溜まっているのが気に入らないところがあるらしく、わざわざ物を言いにきて「豚小屋」などと悪罵していくのが常になっている。

こちらも散らかしている負い目があれば甘んじて受けるところもあるとはいえ、舌打ちしながら他人の持ち物をゴミと言って憚らないあたり、きっちりしているとか綺麗好きのポジティブな形容で捉えるのはむずかしい気がしている。

昔は母のものや祖父のものを勝手に捨てては喧嘩して怒鳴っていたのを覚えている。最近はそうでもないがやらかしていないわけでもない。もう家を出た妹の部屋は服など残していっている物もあるがそれすら「外にぶん投げてやりたい」みたいなことを言っているのでまあ気に入らないのだろう。たいがいまともに言い返すと3倍返し以上で声を荒げて抗弁してくるので自分も母も適当にいなすような言動で済ますことが多い。

そんな父親も昨年定年退職してからほとんど家にいることが多くなった。散々仕事をやめたい愚痴をこぼしていたのでストレス要因がなくなって多少気の立つことも少なくなるかと思いきや、むしろ逆に暇を持て余して他人の様子に目ざとくなったらしい。母はまだ働いているため日中接することが多いのは祖父である。祖父もしっかりしているものの90を超えているのでいくらかの粗相は起こすことがある。祖父の行動したあとをいちいちチェックしてまわっては、出来ていなかったこと――父親基準の瑕疵を「報告」にやってくる。さすがに直接言うことはさすがに控えているが独り言で罵倒していることが多い。そしてまあお決まりの舌打ちと物に苛立ちをぶつける雑な扱いである。

気に障ることがあれば他人の言を否定して詰ることしきりだし、基本の口調が他人を小馬鹿にするような雰囲気なので、よくそこまで他人への気に入らなさを基準に行動できるものだと思う。さながら看守のように家の中をまわっては気に入らないことを”発見”しているので歳を取ったら丸くなるとは聞くものの、いつになったら休まる日がくるのだろうかと思う。

自分は田舎特有の実家住み長男ではあるが、個人の事情もあるとはいえほとんど母と祖父のために居残っていると言っていい状態になっている。妹はさっさと家を出るようにさせたし後押しもしたがその時も一悶着あって怒号とともに気に入らない理由を捲し立てられて泣かされていた。と言っても仲が険悪でもないので父親の気分が良いときはよろしくやっているが、悪人でもない気性難の人間なだけ余計タチが悪いところもある。

大人になって父親にどんどん興味がなくなっていると書いた。人間として興味がなくても関係性は切れない。自分自身も善良に育ったわけではないがマジで俺の良心を挫きまくって削り取るなよなと内心思うことも多い。母が死んだらそれは泣くだろうが父親が死んだら泣くだろうか。父親に興味がないことで何か後悔を起こすだろうか、なさそうな気がする。感慨もなく薄情な人間に見えるだろう。

それ以前にずっと老いて積極的に面倒を見る必要がある状態になったときにどう接するだろうか。その時丸くなってればそれなりに最後まで責務は果たすだろうし、今と変わらなくても”やり返す"気持ちはないだろうと思う。侮蔑を抱いたまま外面良く接するだけになるか。

世間一般ではこう言う、孫でも出来れば変わる。ただ自分は前向きに誰か他人を父親に会わせる気がまったく起きないしさらにそのうえ孫とはとネガティブな想像しか働かない。妹が彼氏を連れてきたときは一時の外面の良さでいい顔をしていた。それまでに何を言っていたか自分は知っているので、”家族”が増えたときにどうなるかは想像に難くない。妹はそれでいいのだ。他の家の人間になってたまの親戚付き合いなら問題はほぼない。

今の自分はその他の事情もあって誰かと恋愛する気がどんどん減じている。できるかどうかは言わないでくれ。自己を制限するような規範を遵守することに何の意味があろうか。普通に考えて家から離れるとか自分の人生を優先するというのが正しい選択肢なのは了解している。まったく馬鹿に見えるだろう。その通り。父親基準に呑み込まれてるじゃんというのは否定できない。

仮に仕事や趣味がうまく行っていても愚かなことに自分の人生はおそらくじわじわ死んでいく部分がある。父親に何を突きつけても訴えても向こうは何も変わらないし、怒りに任せた反撃が返ってくるだけだ。例え手を出すようなことがあっても同じだ。今までに多少どつきあっていないわけでもない。

この程度のこと世の中ありふれているとは思う。基本的にこういうことは克服される。しかし自分は柔弱だ。光明が見えないまま否定的な現状肯定で居心地の悪さと我慢して同居している。特別な憐憫を請いたいがために為にならない自己開示をしているのだろうか。育ちが家族がどうのみたいなことは大人になって自分の内面でケリをつけたつもりでいた。ただときどき幼稚にも鬱積した気持ちが子供時代の否定的な記憶に達することがある。

実に情けない。

親に味方でいてほしいときに逆に責められた記憶しかないなとか余計なことを考え出す。そういうものを盾にしても詫びてくれるわけでもなし。精算はない。時間がいろんなものを――自分を含めて磨り潰すまで今はデッドロックな気がする、というだけ。

今日はひさしぶりにデカくやり合って徒労感と退きの悪い嫌悪感を覚えて要らんことを書いている。