妄々録拾穂抄

MowMowしている

気安く事を表に出すこと

理性による自己規制が強いというのは自覚していて、自制心を強化してアホなことをしない(いやしてるけど)割に他のことも頭の中で余計に抑制して表に出すことを渋るようになった。

ネットの常で片言隻句や断片的な情報で脊髄反射的にアクションを起こしそうになるのを、一旦退いてよく見てからなんか言うみたいな処世には役に立っている。

炎上的な話題を避けたり、社会問題にひとつ口を挟みたくてもいらん反応を受けたくないので慎むとかそういうことの抑制もあるのだが、あれこれしないほうがいいんじゃないかというのは他人の反応を避けたい気持ちが優先して過度に空気を読んだりお忖度してたりと自分の中に染み付いて習いになってしまっている。

目立ちたくなさとか自分の行動にやんやか言われる環境がいやだったとか原因も探ればいくつか理屈はつけられそうである。

しかし問題は何がマイナスになってるかということ。

無意識のシステムとして判断するまでもなく勝手に行動の消極さを優先されたり、発想の飛躍を阻害されたり、一旦自覚的になると不便というか不快というか、素朴に自分でそういう自動的な機能が動いているのが気に入らない。

自分から出てくるものもつまらないし、他人を見て自分を見て、結局考え直して、あれこれと何の話題についてもほんとつまらないと思っている。不要な自己嫌悪や自虐に陥りそうでそれも苛立ちがある。

自己抑制が躓きであるとともに自分が外に何かを発露したい意欲を閉じ込める檻と化している。ガチガチに常識的な範囲に収まろうとする脳の習慣をどう壊してやるか、内圧を逃がす蟻の一穴をどこに開けるか、意識的に枠を外そうとするのは骨が折れる。

ぶち壊そうとする側と抵抗する側が一緒のうえに脳みそ的にもひどく疲れる。人間が習慣と思い込みの生き物である以上、ある程度時間を使って行動を刷り込みなおすしか方法はない。

外から見て気がついたときに考え方の関節を外して外して、感情をもう少し素直に出していいとか書きたいように書けばいいとか塩梅の修正をしていく、でもそれをやるのも自分。ジャッジして監督する自分と抵抗しつつ行為する自分と二役やることのめんどくささもあると言えばある。

どこか引っかかりや躓きとして自覚する部分をなーんでこんなめんどうなことして取り除くかというと、やっぱり不自由だからと思うからで、融通無碍でいたいというか「オイ」と来たら「ハイ」と自然に動くような伸び伸びさが失われてるなと感じているからである。

決して支配からの卒業とか傍若無人になりたいとか子供じみたことでなく、世の中いろいろなカタチのある場所に柔軟にハマっていくための変化みたいなことを意図している。

メタモンでもスライムでもなんでもいいけどああいうかんじ。