自分はどういう人間かと提示するにはいろいろ方法がある。
一番適当なのは何か肩書や属性を名乗ることだろう。社会的なアイコンとしてもどこそこの会社の社員だとかナントカクリエーターだとか職業名を名乗ると、なんとなく何やってる人間か想像してもらいやすい。自分の外側で着込んだ服のように自分の社会的な姿を表してくれる。
ネットでは属性で自己規定をすることが多い。曰くFIREを目指す会社員です、なんらかの病気を患っています、ミニマリストです、なんか変な人です……とかなんとか。露出する系の活動をしていなければ姿かたちを見せないのがほとんどなのでこんな概念でやってる人間ですというのをお出しするのが普通になる。あくまでも肩書とは違うのでその人の雰囲気をイメージするふわふわした材料のようなものだ。
しかし堂々と名乗ることは重要。立場が人を作る。言葉が行動を定める。「驥を学ぶは驥の類たぐひ、舜を学ぶは舜の徒ともがらなり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし*1」とはそういうことで。自分を先に規定してしまえば振る舞いがついてくるとはよく言われる*2。
自分もなんと名乗っても差し支えることはない。うつ病の病歴がある人間です、ブロガーです、SNSに入り浸る人間です、悩める一般人です。
属性はなんと言ってもいいしホントかウソかはわからない。道楽者なのでネットで活動してても特に名乗る職業的肩書はない。ブロガーって言ってもいいが仕事でもないし特に頑張ってもない。それはそれとして自分の属性を名乗るのはちょっと気後れする側面もある。
心理的なもの、性格的なもの、あるいは感性。内心に根ざした人間性を知ってもらうときにどう表現したらいいか。ほとんどみんな自分に悩んでいる。生きづらさを言い表す言葉や概念を探したりするし、今は自分で自分を把握する限りはいくらでも精神医学的な用語、心理学的な用語から当てはまるものを見つけることは容易になっている。自分は何者かでありたいし、それに当てはめてくれる特別な言葉の規定を求めている。願わくばネガティブなものよりは肯定してくれるポジティブな属性を自分を語るものとして持ちたい。
さて自分はどうかと思えば内向型人間、HSP、マルチポテンシャル、当てはまりそうなものを探すとそういうものを発見して拾ってこれる。ただこれは他人から診断をつけてもらったわけでもなく勝手な自己分析にすぎない。
関係する記事を読んで、これは自分だ!自分で見えてなかったがこんな言い表し方があったんだ!と思うのは簡単なのだが、バーナム効果*3なんじゃないかと一抹の疑念も理性が訴えかけてくる。
人間の性格や思考様式なんてものは当たり前だが不定形だ。いくつかの性質が混ざり合っていて、明らかに切り分けられるような形で言い当てられるわけでもなく。それにふわっとした全体の言い表しだと当てはまるような気もするが、ひとつずつ考え直してみると実態も見合わない気がするので名乗り難い気持ちが湧いてくる。
自分を定めてくれる言葉が見つかったとして、でもそれに合わせに行っている自分がいないか、それは誤魔化しになってないかというのがどうしても気になる。名前を与えることで救いがあってモヤモヤがすっきりする効果は認める。でも肩書を名乗るようなキラキラの自己表示とはなんか違う*4。
変な話「ホンモノの人たちに対して後ろめたい」気持ちがあって、自分はそういう特別さを持っていないんだという卑下した心持ちがある。お前なんかニセモノじゃねーか!とわざわざ難癖つけてくる人間がいるわけではないのに、これも自己評価の低さかなんかだろうと思う。そもそも人間それぞれがどんな性質を持っているかどうかにホンモノもニセモノもないのに。
*1:徒然草85段「名馬の真似をすれば名馬となり、賢人の真似をすれば賢人と言える」の意。この前節にみんなよく言う「狂人のまねとて大路を走らば、則ち狂人なり」が来る。
*2:しばしば名乗っただけで満足してしまう人もいるが。
*3:あるいはフォアラー効果。誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分、もしくは自分が属する特定の特徴をもつ集団だけに当てはまる性格だと捉えてしまう心理学の現象。
*4:個人の生活スタイルのミニマリストがそのままでは職業的な肩書にはならないのに似ている。人に合わせたミニマル具合をコンサルしてくれることで価値が発生するならミニマリズムコーディネーターとかは成り立ちそう。