妄々録拾穂抄

MowMowしている

隣の芝の青い鳥を追いかけてたどり着いた魔女の家で人間丸焼きパイにされたとさ

これは自分用のパイ生地こねこね。

SNSに使った時間で他に有益なことが出来たかどうかは個人的にはあまり気にかけていない。ついったーも10年以上居座っているものの、世間でいうところの有名人をフォローしたり情報収集というよりは好きなときに好きな仲間と駄弁るためのツールなので、無駄といえば無駄かもしれないが生活の場と同等の意味を持っているのだった。

あくまで個人的には、と強調するがあり得なかった人生を想起してもたいした実りが存在したとは思いにくい。他に何かしようがあったかと考えてみても人生の向上に思い至るかどうかのことなので、世界はいろいろな形に広がっているが個人の適応の仕方なのであり得た人生にいくら夢を膨らませてみても大した差がないと思う。

つまり後知恵的なナントカバイアスとか現状の悲観に対する代償行為的な夢想とかそんなものにすぎないのではないか。触発されるものに出会うことも情熱の対象を見出すことも運のようなところもあるし、例えば「この5年なにやってたんだろう」と思おうが青い鳥を追いかけたり隣の芝を覗いてもそこに転がってるのは別の種類の”なにやってたんだろう”で似たようなことにしかならない。

自分は厳しいのか後ろ向きなのか。曲がりなりにも進む方向はポジティブでいたいと思っている。現状を肯定したい気持ちと否定したい気持ちとがせめぎ合っていて、日々アップダウンのいろいろがある中で泥をかき分けるような状態でも進歩してると思いたい。借りてきた言葉で糊塗してみても自分のものでない言葉は居心地がよくないし、一度納得するまでパズルのピースのようにハマるところを探してみて自分の中から出てきたものとして言い直さないと上滑り感が気持ち悪い。*1

話を戻せば、誰もが好きな人生を道に例える比喩なら歩きながら対岸の景色に見える道や振り返ってみて気がつく岐路のようなものはまやかしで、何かあるとすれば今このまま進んでいる道の先にしかない。慰めに可能性を想像するならきらめいたものと同等に落とし穴やがけ崩れや樹海への道案内が存在していることも考えないとフェアではない。それが慰めのための空想しか意味を持たないなら、自分を守るための心理的なガードと自覚のうえで好きなように扱えばいいが。

知りようがない可能性の結末はどこまでも想像の域を出ない。これまでが無駄の集積でしかなかったとしても、気がついたときに今日が第一日として改めて始めるしかない。これは自己啓発的意識ではなくただそうするしかないこと。

人生はおおむね見えない失敗や誤解の集積のうえに成り立っている、気がする。氷山の一角のように目に見える他人の成功もたくさんのやらかしが水面下で大きく沈んでいる。死なないうえでやらかしたら次の何かをするしかなく*2、挑戦とか勇ましい言い方をしなくても変化を求めるなら昨日とは違うことを取り入れる。違うことをやれば違う結果が得られる入出力の結果の話。

言葉が意識やメンタルを作るとはいえ自分を鼓舞する言葉をかけつづけるより出てくる結果のおもしろさを求めたいのに基本的には迷走して思い悩んでいる。充足や達成感を覚えたあとも一方で虚脱感や失望が巡ってきたりもするけども、明確な目的がないままでも自分はたしかに何かを作っている、学んだことの中から組み上げているものがあると思ってアンテナや思いつきに引っかかってくるものをこねつづけている。

世間一般の成功として提示されるものとは別に、参考にしながらも自分のほしい成功の形を手探りしている状態。成功者の道筋をトレースすることは有効だが自分の形に合わないと不満がある。”我”とか偏屈さが邪魔をしているとも、先に出したように借りてきたものをお仕着せされるだけでは心地が悪い気持ちが出てくるとも言える。*3

車輪の再発明であっても自分から出てこないものは気に入らない。理解していないものを振り回すことの腑に落ちなさもある。そのうち何か出来てくるのだろうか、わからん今は。技術や抽象的なスキルでも十分に使いこなしているという実感がほしい。そのために理解を前提としなくてはいけない。

流れの落とし所がわからなくなった。山なしオチなし意味なしだが勘弁してもらってこれは終わる。

*1:そういう意味では誰かの言ってたかっこよさそうな横文字の多用も白々しい気持ちになってくる。技術としてはそういう言い方や文章が書けないわけではない。

*2:でも死ぬこと以外はかすり傷みたいな言葉はきらいです。

*3:それはそれとして素直に他人の真似をして成果を出せる人は羨ましい。