1954年、連邦保安官テディ・ダニエルズ(レオナルド・ディカプリオ)とチャック・オール(マーク・ラファロ)ら捜査部隊は、ボストン港(英語版)の孤島(シャッターアイランド)にあるアッシュクリフ精神病院を訪れる。この島でレイチェル・ソランドという女性が、「4の法則。67番目は誰?」(The law of 4. Who is 67?)という謎のメッセージを残して行方不明となった。強制収容されている精神異常犯罪者たちの取り調べを進める中、その病院で行われていたマインドコントロールの事実が明らかとなる。
捜査を進めていく中で連邦保安官の2人は、島に謎が多すぎることに不信感を強めていく。
wikiからあらすじを引っ張ってきたがなんか微妙なのだが自分で書き直す気合がない。テディは独自の調査からこの病院に妻を殺した放火犯レディスが収容されていることを突き止め、今回の事件を幸いにその捜索も行おうと目論んでいる。しかしなぜ都合よくこのタイミングで捜査要請が?というのもこの島への不信感へとつながっていく。
この映画はミステリー映画として見るには少し文学的すぎる。そのためにオチというかネタバラシについてもあまり結末の衝撃を求めることは重要ではないように思う。途中で気づいたとしてもその価値はストーリー全体で何が描かれているかという点に宿るのではないか。
捜査の進展とともにテディの脳裏には戦時中の悲惨な体験と妻の死という傷がフラッシュバックとして頭をもたげ始める。連邦捜査官のテディ自身は秩序の体現者である。彼は自身の規律と手順によって操作を進めようとするが、病院のルールと独自の雰囲気によってそれは阻まれることになる。そして島全体の奇妙な空気に取り込まれるように彼の中の規律にもほころびが表れてくる。
収容される患者たちのほとんどが重罪を犯した人間であるという島に対してテディは良い印象を抱いていない。法の守護者という捜査官の立場(いわば正常な世界の人間)から言えば、ここは現実の秩序の中から逸脱し弾き出された人間たち(いわば異常者)の集められた野蛮な世界なのである。大人しく収容されているように見える患者たちも内面に想像できないほどの暴力を秘めている。
テディの感じる嫌悪感と居心地の悪さは彼自身の求める秩序観によるものであるが、結局それも過去の不条理なトラウマが思い出されてくるのと一緒に彼自身が持ち合わせている暴力性を暴き立て、人間性の中の矛盾を刺激してくる。
正常さと異常さの境界を明確に意識しているようで、それはとても曖昧だ。収容されている人間たちもかつては秩序ある世界に生きる普通の人間だった。犯した行いによって異常性の世界へ追いやられているだけで、それは誰にでも起こりうる立場の転倒である。
彼が戦争体験のトラウマの中に見るのは正常・異常を越えた無秩序な暴力の記憶であるし、ことさらナチスのことを口に出すのは野蛮さを嫌悪し秩序ある世界の代表たろうとする彼の内心の責任感によるものだ。途中警備隊長と交わす暴力と秩序に関する対話の中でも彼は自分は秩序の人間であることを強調する。
しかしテディはなぜそこまで秩序にこだわり苛立ちを見せるのだろう。彼自身の心に負荷をかけ、思い出したくない記憶を思い起こさせるのはどんな心理によるものなのか。これ以上は物語の核心に関わらず述べることをちょっとむずかしい。
作中で示唆されるテディを刺激するようなワードや彼自身の記憶と混ざりあった幻視についても、結末を確認したうえでの二度目の視聴によってその意味がはっきりしてくる。些細な視線、動作、言葉も見直すことで何を意味していたか気がつくはずだ。
重ねて言うがオチ自体はさほど重要ではない。物語の陰に隠れたテディの苦悩がどんな過程を辿って結末にたどり着くのかその意味を考えて見る必要がある。そして最後は彼自身の「モンスターのまま生きるか、善人として死ぬか」という問いかけにそれが表れている。