妄々録拾穂抄

MowMowしている

横並びの意識から抜け出せない

個人的な意識と社会的な雰囲気が混ざった思い込みと、言っても気にし過ぎの話。

何歳でなにをしているか、大人になればもうだいたいは関係ない。人それぞれに人生のスピードがあってどこを歩いているか寄り道しているかは誰かに制御されているわけではない。

はずなのだが、自分は病気療養で働きはじめるのが4年ほど遅かったし、ある程度ふつうの雰囲気で想像されるような社会人の階梯は登ってきたかんじもない。

そういう意識が根強くて劣等感を覚えてしまう。

例えば30になったときに、他の人は仕事し始めて7,8年かそれ以上経つんだろうけど、自分はぜんぜん遅れてるんだよなと少し思ったりしてしまった。

もうみんな学生じゃないのに誰かと一緒の状態にいなくてはとなんとなく思っている。

30歳で明確に何か社会的な実績を達成していなければならないということはないはずが、学校の学年的な横並び意識というか、紋切り的な想像というか、他人との比較意識が強く心理的な束縛を与えていたりする。

職業生活の尺度で考えすぎると余計に顕著で、なんで働くの遅れたの空白期間はなんなのというのはどうしても引っかかるだろうし、明示的に話に挙がらなくても足かせになるよなと思う。勝手に社会的なものさしを想像した場合、どこまでも寸足らずな自分が想定されてしまう。社会的な自分を整形して提示しなければいけないときに気にすることが多くて負担。

他の人と同じ時間で歩いてこなかった意識が”劣後した自分”の想像を強くする。内心の優生意識につながってきそうだが社会から弾き出される、ついていけない、生きていけないかもという恐れがべったりくっついているのを感じる。

それでその不安を解消しようと思ったとする。

外側に別の視点を求めたときに例えば他人の人生論に触れたり、本を読んだとしよう。偏見かもしれないが職業と生活について書かれていることはだいたいこう。

「20代は大事な年代なのであれやこれやの経験をごにょごにょせよ」

そういう話されると真っ当に活動できる20代が存在しなかったのだがどうすれば?と思うところがあるので、それ以降の本筋の話に興味を持ちづらくなる。基本その手の話は一般論で組み立てるので最大公約数的な対象を相手にするのは当然なのはわかる。

だからこそ自分には内容が役に立たない失望がある。のっとふぉーみーである。

それでも一般論として読んだことをアレンジして自分に当てはめて自前でがんばれが答えとして出てきても、どこまでやればいいのかという謎のセーブ意識がかかる。こっちはマイナスをはねのけて自分はサクセスしました!というのを求めてるわけでもない。

世間から見ると意識が低く見られるが普通を擬態していたいというのが一番近い気持ち。やっぱりみんなと一緒にいて安心したい横並び意識じゃんと自覚もする。でも自分としてはそこそこの高みだぞ、と。

やるかやらないか。

なるかならないか。

思考を固定化する思い込みと今を脱却できない心理的障壁の存在を感知しているのに塀の中を歩き回っている状態というか。

わからん、といつもの思考停止ワードが口をつく。

 

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