妄々録拾穂抄

MowMowしている

息をするように、言葉を

タイトルをちょっと気取って少し自分語りをしてみる。

 

自分は言語能力の発達が早い子供だったので、ひらがな・漢字を覚えるのが早かったし、無論小学生時代から読書三昧だった。

文章を書くのも好きで安直だがやっぱり子供の頃から作家になりたかった。

空想が好きだった。自分じゃない誰かの物語を作るのが好きだった。長編シリーズのアイディアを立て、キャラクターの設定を細かく作り、誰かの真似でもいいから話をつくって好きなだけ書いていた時期があった。

小中高とそんな感じでやってきて、大学時代になっていくつかの文学賞に応募したが案の定、見事玉砕した。

そこまではいい思い出であったけど、結局調子を悪くしてから自分の中で想像力の泉は枯れてしまった。感情がこわれてしまったので自分の中から出てくることばもなくなってしまった。べつに出来なくなったからといって死んでしまうわけではなかったが、書けない自分が嫌になった。

自然に出来ていたことが出来なくなったのはひどく嫌な経験になった。

なぜ書けなくなったのだろうというのは考えても仕方ない。出て来ないものは出て来ないのだ。想像力でポンピングされていたものが湧かなくなっただけでそれはそれでおしまいだったというだけなのだから。

 

それでも技術は残る。

傾向は変わったが読書はやめていないし、頭の中に言葉のストックはある。書くことに対して扱う能力は残っている、と思う。

文章を書くのは楽しい。たぶんその気持ちも残っている。他人と比べて特筆するほどのことでなくても自分にはできる力が残っている。それで十分じゃないかなと多少思ったりする。

いまはむしろ堅い文章を書くほうが好きかもしれない。批評家や評論家然としたほうが手は進む気はする。ネタはないのでいまは隙あらば自分語りでごまかしている。

でも創作はいまいち上手には出来ないと思う。二次創作でもそれは同じ。物語を書くことにはつっかかりがあるような気がする。気がする、というのだから単に気の所為であってほしい。今からまた作家になろうというわけでもなし、なにか出てきたらそれは下手でも書く気になれば、なるようにすればいいだけのことで。

 

言葉が枯れたら自分の精神は死ぬんだと思っていたときもあった。

ある人は言葉(語彙)とは感情の制御力だと言った。語彙が豊かな人は自分の内面の言語化の方法を知っている。何を感じているか言葉に出来れば適切に感情を扱うことができる。言葉の繊細さを知る人は人間の感情の繊細さを知る人だ。

感じるものが豊かであるように、同様に見える世界が豊かであるように、自分は言葉を枯らしたくない。

格好をつけたけど自分はまだなにか書くつもりではいるようだ。言葉が好きだ。それで十分ではないのか。自分の中へ降りていってまだそういう部分が残っていればそれでいい。